いったん「メンズデー」や「レディースデー」を止めてみるという選択を世の中は出来るのか?

いったん「メンズデー」や「レディースデー」を止めてみるという選択を世の中は出来るのか?

もう多分、みんな頭の中ぐっちゃぐちゃになっていると思うのでね。?

さすがにメシ屋の「メンズデー」「レディースデー」は差別でなく区別だろうと思っていながら、
区別さえなくならない限りは差別もなくならないんじゃないかなんて仮説を立ててみる次第なんです。

例えば居酒屋なら、
「よく食べる男性に比べて女性はあまり食べないし、時間制食べ呑み放題はその分お得にしようナイスアイデーア!」って一瞬だけ超分かるんだけど、一般論の域を過ぎない。


いっぱい食べるかどうかを男女で分けるのは結構乱暴だし、
あまり食べない前提で呼び込まれた女性客は気を遣うのかもしれない。 ?

あと、サラダの原価は高そうだ。

食事量で分けるというのもリスキーではあるが、イベントごとの設定が集客するために大事な気もする。

「レディースデー」と同様に「メンズデー」を採用している居酒屋も多いだろうが、

そもそも同性だけ集まる空間が苦手な人もいるだろう。

ただし、あくまでもお店側の戦略なので、
それに対して「時代にそぐわない」とか「差別に繋がる」なんて物申すことも憚られる。

設定も自由。客の行く・行かないの判断も自由。
そうやって今まで成り立っていた。はず。

同じような悩み(無理やりではあるが)として、
トイレどうしよう問題がある。

男子専用トイレ・女子専用トイレ、分かれていることの利便性から私たちは離れることができるのだろうか。
離れる必要はあるのだろうか。

「違う生物」だなんて肉体的にも精神的にも大きく異なる部分をたくさんクローズアップして比較を繰り返してきた私たちが急に、
「同じ生き物として平等に」をスローガンに掲げ、
特性を無視した公平感を装うことに虚しくならないのだろうか。

ただ、一方で、何も考えないことが異性を傷付けていると感じる現場に、
人それぞれ何度も遭遇しているだろう。

だからこそ、合っているか間違っているか分からない施策を講じて確かめる。

試さないと分からないことが多過ぎる。
試してみた結果を批判する人もまあまあ多い。

仕方ない。
変化に犠牲は付き物だ。

今も新しい犠牲を生んでいる。

あなたは男ですか、女ですか、それ以外ですか、興味ないですか?

全員を制度で救うことは出来ない。
かといって投げ出すことも出来ない。

弱者はいつしか打たれ強さを覚えたように見えた。

すると弱者は誰なのかがすぐに分からなくなった。

今も、男性も女性もLGBTもそれ以外も、悩んでいる人はいる。

悩み過ぎている人も居る。
全く悩んでいない人も居る。

私たちは、窮屈でもなんとか凌いできた今までから脱却して、
ホントの意味での「差別なき社会」を作れるのだろうか。

分かりやすく男性な私は、レディースデーにどうしても行きたくなる日がある。

ないものねだりではない。

その場所に幸福を感じている人が店内にきっといるだろう。
行けば幸福を分けてもらえる気がする。
私が行くことでその場の幸福度が下がる気もする。

分かりやすく女性なあなただって、メンズデーに憧れを持っているかもしれない。

そこに差別の意識はないのだろう。

男女について頭をフル回転させていたら、
遠くから子供の声が聴こえてきた。

「なんで子供はお酒を飲んじゃいけないの?!」

…とてもいい質問だね(^-^)

2件のコメント

  1. ピンバック: Twitterのトレンドを漁っていたら、堂々とタイトルで表示しづらい言葉に出逢った | おきなわとっぷぶろぐ

  2. ピンバック: LGBTについて考えるのをやめてみる | おきなわとっぷぶろぐ

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